土佐藩
河田小龍
土佐の絵師。アメリカから帰国した万次郎が日本で活躍できたのは、ひとりの男の支えがあったからと言われる。当初、万次郎は長年の異国生活により日本が不自由になっており、藩の取り調べは難航していた。そこで抜擢されたのが、河田小龍であった。
幼い頃から学問の道に入り、絵画・蘭学を学んだ小龍は、漂民の中でも万次郎に教養があることを見抜いた。そして許可を取り、自宅へと連れ帰る。尋問を終え帰ると互いに言葉を教えあうなどし、言葉が通じ合うようなるとふたりの友好は深まっていった。
万次郎は小龍にアメリカでの生活の様子などを語り、小龍はその話に聞き惚れた。中でもアメリカの民主社会の仕組みは小龍の心を打ち、これらの話を書き留めるべきだと考えた小龍は『漂巽紀略』と題した本をまとめた。そして、この書を藩の啓蒙活動に利用しようと藩主・山内容堂に献上したのだった。
ところが、小龍が藩命で薩摩へ行っている間に、万次郎は紀略の草稿を土佐の識者であったという早崎益寿に見せてしまった。早崎はその草稿をもとに、多くの副本を作った。こうして万次郎の漂流記は巷に流布されることとなり、これが現在数多く存在する万次郎の物語の源流になったと言われている。そしてこの一件以来、ふたりは絶交してしまったという。
後藤象二郎
幕末か明治にかけて活躍した土佐藩士、政治家。吉田東洋の義理のおい。板垣退助とは幼なじみで、吉田東洋の塾でともに学んだ。
万次郎が影響を与えた人物は非常に多く、なかには明治維新で活躍したものもいる。万次郎が土佐藩家老・吉田東洋に外国事情を紹介している時に、東洋のそばで熱心に万次郎の言葉に耳を傾けている少年がいた。この少年は後藤象二郎であった。万次郎は象二郎のその姿勢に心を打たれ、1枚だけ残っていた世界地図を彼に与えた。象二郎は大いに喜んで、数日間部屋にこもり地図をずっと眺めていたという。
その後、土佐藩の主任となった象二郎は、富国強兵の基礎を築くため、1866年 (慶応2年) 藩校・開成館を設立。講師として招かれた万次郎は、航海術や測量、英語、捕鯨などについて講義をした。また象二郎は、長崎に艦船や鉄砲の買い付けに行った際、船に詳しく英語が話せる万次郎を頼りとした。結局、長崎では気に入った船が見つからなかったが、万次郎は2度上海にまで足を延ばして、砲艦や蒸気船を購入したのだった。
一方、幕末の動乱に揺れる京都では、将軍・徳川慶喜が幕権回復策を推し進めようとしていた。象二郎は京に呼び寄せられる。打開策が見つからないなか、長崎から兵庫へ向かう船上で象二郎は坂本龍馬からかねてから温めていたというある策を聞くこととなる。それは、将軍の政権奉還を第1条に掲げた「船中八策」であった。龍馬もまた万次郎から大きな影響を受けており、この構想にも万次郎の寄与が少なからずあったと言われている。象二郎は、この案をもとに慶喜に大政奉還を進言。そして1867年(慶応3年)10月、大政奉還が実現したのである。
維新以後は自由民権運動に参加し、実業の世界にも手を出すなどする。しかし事業は経営破綻し、岩崎弥太郎に会社を売却。その後は、板垣を中心として自由党結成するが、政府側に転じる。逓信大臣や農商務大臣を務めるが、取引所設置問題で弾劾され辞任。晩年は病もあり、不遇であった。
岩崎弥太郎
三菱財閥の創業者である実業家。万次郎から海外の知識を得た吉田東洋の塾に学ぶ。ここでの教えがきっかけで、海外へ目を向けるようになったと言われている。また、東洋の塾にて後藤象二郎らとの知遇を得た。
漂流仲間
アメリカ
ウィリアム・ホイットフィールド
万次郎らを鳥島で救助したジョン・ホーランド号の船長。万次郎をフェアヘーブンの家に温かく迎え入れ、教育を受けさせた。以来、万次郎の死後も船長一家と中浜家は代々交流している。
フランクリン・デラノ・ルーズベルト
万次郎の死から35年後の1933年(昭和8年)の夏のある日、東京・田園調布に住む万次郎の長男である東一郎の元に1通の手紙が届いた。差出人の名は、アメリカ合衆国第32代大統領・フランクリン・デラノ・ルーズベルトであった。
実は、ルーズベルトの祖父・ワレン・デラノは、万次郎を救助したホイットフィールド船長の親友であり、捕鯨船ジョン・ホーランド号の共同船主であった。少年時代、ルーズベルトは祖父から万次郎の話をよく聞いていたという。手紙には、ワシントンで石井菊次郎駐在大使と会った時に万次郎の話題が出たことや、幼少に聞いた万次郎の話、例えばホイットフィールドが万次郎をマサチューセッツ州のフェアヘーブンに連れて帰り、学校に通わせ教育を受けさせたことや、時にデラノ一家が万次郎を教会に連れて行ったことなどが書かれてあった。少年・ルーズベルトにとって、万次郎は大きな憧れであったのだ。万次郎の人生が、まるで一平民が公爵にまで上りつめたサクセスストーリーのように思えたという。
ルーズベルトは大学で法律を学び、卒業後は弁護士を経て民主党へ。小児麻痺で8年間の療養生活を強いられながらも、ニューヨーク州上院議員、海軍次官、ニューヨーク州知事を務めた後、世界大恐慌のまっただ中のアメリカ大統領となる。この大恐慌の対策として、ルーズベルトは国家が経済に介入するというニュー・ディール政策を掲げた。そして「救済、復興、改革」をテーマに、銀行整理、農業調整、公共土木事業による失業者救済などを次々と行い、アメリカ経済を救っていったのである。しかし再選を果たした後、回復しつつあった経済は再び危機に陥り、国際間の緊張の激化もあり、ルーズベルトの政策は外交問題へとシフトを余儀なくされた。
その後、第二次世界大戦が勃発。ルーズベルトは異例となる4選を果たすが、戦争終結直前の1945年(昭和20年)4月12日、脳卒中で63年の生涯を閉じた。
アメリカに帰化した初の日本人
ジョセフ・ヒコ
幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」とも呼ばれた。
万次郎が漂流してから約10年、またひとり日本人が漂流を経てアメリカへ渡った。播州(兵庫県)に農民の子として生まれた浜田彦蔵である。13歳の時、彦蔵は江戸見物の帰りに遠州灘で暴風雨に遭い、海へと投げ出された。51日間もの漂流の末、南鳥島付近でようやくアメリカ船に救助されると、そのまま船員達とサンフランシスコに滞在することに。1854年(安政元年)、カトリックの洗礼を受けてジョセフ・ヒコと名乗った彼は、日本人として初めてアメリカに帰化した。大統領のピアスやブキャナンとも会見し、後にはリンカーンとも会見した。
開国直後の1859年(安政6年)、ヒコは9年ぶりに帰国。アメリカ領事館館員となり、横浜で通訳の任に就く。ヒコは咸臨丸で渡米するブルック船長を案内した際、はじめて万次郎と出会った。同じように若くして漂流し、アメリカへ渡ったふたりだったが、万次郎は鎖国の死線を越えて帰国、かたやヒコはアメリカに帰化したという対照的な面があった。ブルックのメモには、この時万次郎とヒコがふたりだけで30分ほど話したと記してある。
ヒコは、自身の体験をもとに『漂流記』を刊行した他、1864年 (元治元年) には『海外新聞』を創刊。これは日本で印刷、発行された最初の民間新聞である。後に「新聞の父」と呼ばれたヒコは、多くの日本人が海外のニュースを知りたがっていることに応えようとしたのだった。期待に反して新聞は売れず、やむなく無料配布することとなるが、ヒコもまた万次郎と同様、海外情報源としての役割を担ったのである。
1863年(文久3年)領事館を辞め、横浜で商社を設立。1872年(明治5年) には大蔵省へ出仕して「国立銀行条例」の編纂にかかわった。他にも神戸で貿易商や精米所を営んだりと、生涯を終えるまで、精力的に活動したのだった。 1897年(明治30年)12月12日 、 心臓病により自宅で死去。