土佐藩

山内容堂

幕末四賢侯に数えられた15代土佐藩主。帰国した万次郎を召喚し、西洋の事情を自ら聞き取った。また、一門の屋敷に異国の服装で万次郎を召し出し、見物したと言われている。

吉田東洋

難航した万次郎の尋問に、絵師・河田小龍を立ち会わせた土佐藩士。藩主・山内容堂に抜擢され、藩の改革に努めたが保守派の勤王党によって暗殺された。後藤象二郎は義理のおいである。

河田小龍

土佐の絵師。アメリカから帰国した万次郎が日本で活躍できたのは、ひとりの男の支えがあったからと言われる。当初、万次郎は長年の異国生活により日本が不自由になっており、藩の取り調べは難航していた。そこで抜擢されたのが、河田小龍であった。
幼い頃から学問の道に入り、絵画・蘭学を学んだ小龍は、漂民の中でも万次郎に教養があることを見抜いた。そして許可を取り、自宅へと連れ帰る。尋問を終え帰ると互いに言葉を教えあうなどし、言葉が通じ合うようなるとふたりの友好は深まっていった。
万次郎は小龍にアメリカでの生活の様子などを語り、小龍はその話に聞き惚れた。中でもアメリカの民主社会の仕組みは小龍の心を打ち、これらの話を書き留めるべきだと考えた小龍は『漂巽紀略』と題した本をまとめた。そして、この書を藩の啓蒙活動に利用しようと藩主・山内容堂に献上したのだった。
ところが、小龍が藩命で薩摩へ行っている間に、万次郎は紀略の草稿を土佐の識者であったという早崎益寿に見せてしまった。早崎はその草稿をもとに、多くの副本を作った。こうして万次郎の漂流記は巷に流布されることとなり、これが現在数多く存在する万次郎の物語の源流になったと言われている。そしてこの一件以来、ふたりは絶交してしまったという。

後藤象二郎

幕末か明治にかけて活躍した土佐藩士、政治家。吉田東洋の義理のおい。板垣退助とは幼なじみで、吉田東洋の塾でともに学んだ。
万次郎が影響を与えた人物は非常に多く、なかには明治維新で活躍したものもいる。万次郎が土佐藩家老・吉田東洋に外国事情を紹介している時に、東洋のそばで熱心に万次郎の言葉に耳を傾けている少年がいた。この少年は後藤象二郎であった。万次郎は象二郎のその姿勢に心を打たれ、1枚だけ残っていた世界地図を彼に与えた。象二郎は大いに喜んで、数日間部屋にこもり地図をずっと眺めていたという。
その後、土佐藩の主任となった象二郎は、富国強兵の基礎を築くため、1866年 (慶応2年) 藩校・開成館を設立。講師として招かれた万次郎は、航海術や測量、英語、捕鯨などについて講義をした。また象二郎は、長崎に艦船や鉄砲の買い付けに行った際、船に詳しく英語が話せる万次郎を頼りとした。結局、長崎では気に入った船が見つからなかったが、万次郎は2度上海にまで足を延ばして、砲艦や蒸気船を購入したのだった。
一方、幕末の動乱に揺れる京都では、将軍・徳川慶喜が幕権回復策を推し進めようとしていた。象二郎は京に呼び寄せられる。打開策が見つからないなか、長崎から兵庫へ向かう船上で象二郎は坂本龍馬からかねてから温めていたというある策を聞くこととなる。それは、将軍の政権奉還を第1条に掲げた「船中八策」であった。龍馬もまた万次郎から大きな影響を受けており、この構想にも万次郎の寄与が少なからずあったと言われている。象二郎は、この案をもとに慶喜に大政奉還を進言。そして1867年(慶応3年)10月、大政奉還が実現したのである。
維新以後は自由民権運動に参加し、実業の世界にも手を出すなどする。しかし事業は経営破綻し、岩崎弥太郎に会社を売却。その後は、板垣を中心として自由党結成するが、政府側に転じる。逓信大臣や農商務大臣を務めるが、取引所設置問題で弾劾され辞任。晩年は病もあり、不遇であった。

岩崎弥太郎

三菱財閥の創業者である実業家。万次郎から海外の知識を得た吉田東洋の塾に学ぶ。ここでの教えがきっかけで、海外へ目を向けるようになったと言われている。また、東洋の塾にて後藤象二郎らとの知遇を得た。

坂本龍馬

維新期に新しい日本の姿を構想した志士。河田小龍から伝え聞いた万次郎の漂流談や海外話に大きな影響を受ける。これらの話は後の船中八策にも示唆を与えたと言われる。

漂流仲間

筆之丞(伝蔵)

重助、五右衛門の兄。後に伝蔵と改名する。万次郎の渡米後、弟・五右衛門とフロリダ2世号で帰国を試みるが失敗。その後、万次郎と無事帰国を果たす。

重助

筆之丞(伝蔵)の弟。万次郎とともに漂流。鳥島へ上陸した際に足を負傷する。救助されハワイに渡るが病死。オアフ島カネオヘに埋葬された。

五右衛門

筆之丞(伝蔵)、重助の弟。万次郎とともに鳥島に漂着。日本に帰国後は、兄・筆之丞と同じく宇佐を離れることなく暮らしたと言われるが、万次郎と会うことは2度となかった。

寅右衛門

宇佐浦出身の漁師で、万次郎らと鳥島に漂着したひとりである。ハワイに上陸後はホノルルで大工となる。妻もいたため、万次郎らと帰国はせず、その地に永住した。

アメリカ

ウィリアム・ホイットフィールド

万次郎らを鳥島で救助したジョン・ホーランド号の船長。万次郎をフェアヘーブンの家に温かく迎え入れ、教育を受けさせた。以来、万次郎の死後も船長一家と中浜家は代々交流している。

サミュエル・デーモン

ホノルルで協会を主催していた牧師でホイットフィールド船長の友人。新聞『フレンド』紙を発行しており、 万次郎の帰国に際し記事を書いて援助を呼びかけるなど、大きな助けとなった。

ワレン・デラノ

フェアヘーブンに住む、ホイットフィールド船長の親友。ジョン・ホーランド号所有者のひとりでもあった。
しばしば万次郎を教会へ連れて行ったという。

マシュー・ペリー

日本を開国させたアメリカ東インド艦隊司令長官。日米和親条約締結の際に、通訳に万次郎を推す声もあったが、スパイ疑惑など周囲の反対で実現はしなかった。

フランクリン・デラノ・ルーズベルト

万次郎の死から35年後の1933年(昭和8年)の夏のある日、東京・田園調布に住む万次郎の長男である東一郎の元に1通の手紙が届いた。差出人の名は、アメリカ合衆国第32代大統領・フランクリン・デラノ・ルーズベルトであった。
実は、ルーズベルトの祖父・ワレン・デラノは、万次郎を救助したホイットフィールド船長の親友であり、捕鯨船ジョン・ホーランド号の共同船主であった。少年時代、ルーズベルトは祖父から万次郎の話をよく聞いていたという。手紙には、ワシントンで石井菊次郎駐在大使と会った時に万次郎の話題が出たことや、幼少に聞いた万次郎の話、例えばホイットフィールドが万次郎をマサチューセッツ州のフェアヘーブンに連れて帰り、学校に通わせ教育を受けさせたことや、時にデラノ一家が万次郎を教会に連れて行ったことなどが書かれてあった。少年・ルーズベルトにとって、万次郎は大きな憧れであったのだ。万次郎の人生が、まるで一平民が公爵にまで上りつめたサクセスストーリーのように思えたという。
ルーズベルトは大学で法律を学び、卒業後は弁護士を経て民主党へ。小児麻痺で8年間の療養生活を強いられながらも、ニューヨーク州上院議員、海軍次官、ニューヨーク州知事を務めた後、世界大恐慌のまっただ中のアメリカ大統領となる。この大恐慌の対策として、ルーズベルトは国家が経済に介入するというニュー・ディール政策を掲げた。そして「救済、復興、改革」をテーマに、銀行整理、農業調整、公共土木事業による失業者救済などを次々と行い、アメリカ経済を救っていったのである。しかし再選を果たした後、回復しつつあった経済は再び危機に陥り、国際間の緊張の激化もあり、ルーズベルトの政策は外交問題へとシフトを余儀なくされた。
その後、第二次世界大戦が勃発。ルーズベルトは異例となる4選を果たすが、戦争終結直前の1945年(昭和20年)4月12日、脳卒中で63年の生涯を閉じた。

アメリカに帰化した初の日本人

ジョセフ・ヒコ

幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」とも呼ばれた。
万次郎が漂流してから約10年、またひとり日本人が漂流を経てアメリカへ渡った。播州(兵庫県)に農民の子として生まれた浜田彦蔵である。13歳の時、彦蔵は江戸見物の帰りに遠州灘で暴風雨に遭い、海へと投げ出された。51日間もの漂流の末、南鳥島付近でようやくアメリカ船に救助されると、そのまま船員達とサンフランシスコに滞在することに。1854年(安政元年)、カトリックの洗礼を受けてジョセフ・ヒコと名乗った彼は、日本人として初めてアメリカに帰化した。大統領のピアスやブキャナンとも会見し、後にはリンカーンとも会見した。
開国直後の1859年(安政6年)、ヒコは9年ぶりに帰国。アメリカ領事館館員となり、横浜で通訳の任に就く。ヒコは咸臨丸で渡米するブルック船長を案内した際、はじめて万次郎と出会った。同じように若くして漂流し、アメリカへ渡ったふたりだったが、万次郎は鎖国の死線を越えて帰国、かたやヒコはアメリカに帰化したという対照的な面があった。ブルックのメモには、この時万次郎とヒコがふたりだけで30分ほど話したと記してある。
ヒコは、自身の体験をもとに『漂流記』を刊行した他、1864年 (元治元年) には『海外新聞』を創刊。これは日本で印刷、発行された最初の民間新聞である。後に「新聞の父」と呼ばれたヒコは、多くの日本人が海外のニュースを知りたがっていることに応えようとしたのだった。期待に反して新聞は売れず、やむなく無料配布することとなるが、ヒコもまた万次郎と同様、海外情報源としての役割を担ったのである。
1863年(文久3年)領事館を辞め、横浜で商社を設立。1872年(明治5年) には大蔵省へ出仕して「国立銀行条例」の編纂にかかわった。他にも神戸で貿易商や精米所を営んだりと、生涯を終えるまで、精力的に活動したのだった。 1897年(明治30年)12月12日 、 心臓病により自宅で死去。

幕府

阿部正弘

開国を推し進めた老中主席。幕末期、安政の改革を断行した。万次郎の評判を聞き江戸に呼び寄せると、幕臣に登用。自邸に招き海外事情などを諮問したが、開国を待たずに病死した。

江川英龍

海防に尽くした幕臣。太郎左右衛門とも。日本に西洋砲術を普及させた人物。万次郎の能力を見込み幕臣登用の道をつくる。また自邸に住まわせ英語や航海術を教授させたが、まもなく病死した。

薩摩藩

島津斉彬

開明派で知られた第11代薩摩藩主。幕末四賢侯のひとり。帰国した万次郎を城内に召し、じきじきに海外事情を尋ねた。この時の知識が、藩の造船事業に役立ったと言われる。

水戸藩

徳川斉昭

攘夷論と海防策を強く主張した水戸藩主。第15代将軍・徳川慶喜の実父でもある。条約交渉の通訳として万次郎の名前が挙がった際、アメリカ側に通じる恐れがあるとして、これに反対した。

仙台藩

大槻盤渓

幕末の儒学者で砲術家。ペリー来航の際、万次郎を通訳として幕府に推薦した。江川英龍の門人として砲術を学び、開国論を主張した。

咸臨丸

勝海舟

明治維新の立役者となった幕臣。咸臨丸に指揮官として乗り込み、航海上の一切を万次郎に任せた。帰国後は江戸無血開城を実現し、新時代を到来させた。

福澤諭吉

慶應義塾を創設した啓蒙思想家。志願して咸臨丸に乗船し、万次郎とアメリカに渡る。西洋文明を紹介するとともに教育者、思想家としても活躍した。

ジョン・ブルック

航海経験を買われ、案内役として咸臨丸に乗ったアメリカ海軍大尉。詳細な航海日記を記し、そのなかで万次郎の働きぶりを評価している。

中浜家

しお

万次郎の母。消息を絶った息子を死んだものと考えていたが、11年後に感動の再会を果たす。万次郎は母を撮るためにカメラを、また針仕事をする母のためにミシンを持ち帰ったといわれる。

時蔵

万次郎の兄。生来病弱であり、一人前の漁師になれる見込みはなかったという。
父・悦助が早くに死ぬと、万次郎が代わりに働き家計を支えた。

万次郎の妻。父は本所亀沢町で剣術道場を開いていた団野源之進。縁談は幕臣・江川英龍がまとめた。1男2女をもうけたが、麻疹にかかり若くして病没した。