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第9回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年9月3日(水)】

 

※こちらの記事は池道之助の五代目子孫、鈴木典子さんの解釈版となっております

 鈴木さんの意向を踏まえて頂いた原稿をそのまま掲載しております。ご了承くださいませ。 

 

池道之助の旅日記紹介9

 

キリストの話から

 私はクリスチャンですから、キリストに関することに興味があります。

 道之助の記録を読み進めながらキリストに関する言葉が出ていることに気付き、それらについての読みを始めました。まず、サンデーに行ったという記録が出ていてその日付を辿ってみました。すると、7日ごとになっています。

(ここからが私の勝手な解釈です)

これは、日曜日に宣教師のもとにお話を聞きに出かけたのではないか、と想像して礼拝に出かける道之助おじい様の姿を思い浮かべたのです。素敵でしょ。

 当時の幕末の志士たちは、聖書の教えをほとんどの若者が学んでいたという話を聞きました。納得のできることです。坂本龍馬の率いる海援隊の若者たちも学んでいたのです。彼らは新しい日本をつくるために、外国文化の良いところを取り入れようとしていたのです。そのためには、活動資金が必要です。龍馬は亀山社中という会社で貿易の働きを始めて、いわば社長であったのです。

有名な、「いろは丸」事件の話があります。これは龍馬が貿易商売に使う船が沈められた事件の事ですが、貿易商の交渉ですから多額の賠償を相手に吹っかけたのです。これは交渉術です。あまりの多額のため、紀州の武士は内々に下げてくれるように土佐藩に交渉しています。道之助の記録では決着額は八十万両と記していて、これは筆の誤りで十を加えてしまったらしく八万両が正しいのです。この決定額が高く、それを下げるための日夜の話の様子が出ています。最終的には六万なにがしかの額で決着したようです。この辺りを想像していると、独りでおかしくてお腹を抱えて笑ってしまいます。

 話は飛びます。万次郎が帰国してから民主主義の交渉の仕方を随分政府に説明していたらしいのですが、この龍馬の交渉は万次郎の民主主義の話から影響を受けたものではないかと思われます。対等に話し合いに臨む姿です。龍馬は賢い人ですから、この辺りを良く学んでいたのでしょう

 この年は、慶応三年の出来事です。この1年の大変な出来事については次に記します。

 翻ってキリストの話に戻ります。「今日、浦上ミノとその家族 残念にも召し捕らえられる キリシタン宗の事である」とあります。

 龍馬伝の最中、長崎に鈴木と車で出かけました。その際、元土佐商会の跡地である博物館に入りました。その案内役の方から、当時のバテレン(キリスト者)狩りの話を聞きました。三度のバテレン狩りがあり、道之助の記録の物は最も大きなもので、一度に千人以上の隠れキリシタンが捕えられたのです。故に、道之助は記録に残したのでしょう。彼らは、再び長崎の地に戻ることはなかったようです。五島列島に流されたりしています。国外(長崎国以外)に散らされたのです。四国にも渡っています。このような話について、詳しく調査しても学術論文になります。

 又、道之助の「今日からフランス教師アメリカ教師になる」と言うような記録を見ると教えを受けていた宣教師の入れ替えかな、と想像するのです。

 万次郎が案内して行ったイギリス随一の金持ちと言われた商売人や各国の商業施設にも拘らず、彼らがジパン国(マルコ・ポーロの東方見聞録の記録から)と呼んでいた日本国を植民地化出来なかった理由が以上、述べた中にあります。

 日本人は、良く学ぶ民族であること。又、良い意味で武士階級の者たちは対等に話をする勇気を持っていたこと。自分の意見を持っていたということも大きな要素です。

 ここで、寺子屋教育の素晴らしさを見ることが出来ると私は当時の教育の底力を偲んでいるのです。

 

 

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