第4回 池道之助の旅日記紹介
- 2014/06/01 13:46
- カテゴリー:池道之助日記
【発信日:2014年6月1日(日)】
※こちらの記事は池道之助の五代目子孫、鈴木典子さんの解釈版となっております
鈴木さんの意向を踏まえて頂いた原稿をそのまま掲載しております。ご了承くださいませ。
池道之助の旅日記紹介 第4回
二十五日茂木浦出発。長崎着
茂木から長崎へは一里半の距離。朝はゆっくりして髪を結い風呂に入り五つころ(午前8時頃)ここを出立。九つ時(昼12時)に長崎着。
宿は糀屋町(こうじやまち)西川易次郎
この西川宿は易次郎の先代の主助の代より土佐国の御用達を仰せつかり、主助はそのお役目をよく勤めていたのであるがこの年の春、何者かの仕業で町内を往来していた夜四つころ(9時頃)に帰宅の途中町内で切り殺されたのである。実に合点の行かぬことであると人々が噂をする。なぜなら普段は正直者である故にこの御用をいただいたのであるから、人に切り殺されるような恨みを持たれる人物ではない。土佐藩の一行は非常に残念で涙いたした。
この頃、いろいろな物騒な話が飛び交っていた。
諸国から様々な修行のため人々が入り込み土佐からも二十人あまりの人がこの地に留学して、英学、医学や様々な塾で学びそれらの人を皆、西川主助が世話していたのである。各々の宿の世話、日用の世話までしておったが金銭トラブルでもあったのではないかとのことである。その頃、土佐からの書生の中に医師と御足軽の両人が出かけていたのでこの人達ではないかとの噂が流れたのであるが、確かなことはわからないので此処にその噂を記しておく。(犯人がわからないままであるゆえ)
それからは御用達を止められておったが再び、七月二十七日をもってせがれ易次郎へ以前の通り御用達を仰せつかったのである。一同有り難きことであると悦んだ。
二十六日後藤様の一行長崎につく。御宿は櫻馬場三浦藤蔵方である。
二十七日 天気 宿の留守番
二十八日 中濱氏同道にて五つ時(朝8時)出立。
古川町姫路屋久右衛門かたへ行きその後オランダレーマンの宅に行き二階に上がり酒など馳走になる。色々鉄砲見物をする四十五十あまりの筒の売買をすると聞く。その座敷のよいこと実に美を尽くせり。出島というこの所でめがねを買い向かいの尾浦を眺めるとイギリス・オランダ色々の家並みが見え、実に異国同様の様子である。湊には唐人、イギリス、アメリカ、オランダ舟二十隻あまり停泊見事である。
その帰り道、又二階に上がるとフランス製の売り物があり実に美しい。その後宿へ帰り休息する。そこにも数々の来客があり話しをする。
七月二十九日 天気
髪を結い読書する。中濱氏は数人の者と尾浦へ行く。私は留守番。
後藤様、中濱、田井、松井、かれこれ四、五人連れで行く。色々御見物の後日暮に帰る。この夜私は加治屋町大根屋の庄衛へ行き、うでぬき一枚新しいものを買って帰る。
三十日 天気 五つ半(朝9時)中濱と一緒に櫻馬場三浦藤蔵方の後藤様の宿へ行き金子(きんす)を持ち帰り中濱に渡す。九つころ(昼の0時)から後藤様、中濱、由比、松井の四人でレーマンへ筒見物に行く。七つ(午前4時)頃から雨降り出す。今夜は土佐商会総出。私一人が留守番。読書をする。
八月朔日(8月1日)雨大降り四つころ(午後2時)より雨上がり日和になる。田村屋庄衛より奥濱の反物、羽織、袴など三品受け取り金四両渡す。
中濱君 早朝出て八つに帰る。
長崎到着の翌日より一行は公務に着手して買い付けのための見学や交渉に動きが活発です。長崎とは違い、ゆったりとした地方に住む者たちにとっては目を見張るようなことばかりで落ち着いてはいられなかったのでしょう。辻斬りや大事、物騒なことが起こり始めます。
文明開化当時の長崎でのようすが道之助日記をたどってゆくとよくわかります。
次回をお楽しみに。
→池道之助の旅日記紹介5へ続く