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「海の駅から」⑤

 1854(嘉永7)年3月3日、日米和親条約が締結された。その調印式が終わるとポーハタン号は江戸湾を出て、僚艦・ミシシッピー号と開港の決まった下田に向かった。

 下田に停泊していたポーハタン号に、吉田松陰、金子重之輔が小舟で近寄り、密航を懇願する。司令官のペリーは、「幕府の許可のない者を乗船させることはできない」と拒否、士官に命じて2人を人目につかない海岸に送り返した。(2人が漕ぎ寄せたのはミシシッピー号との説もある)

 このあとポーハタン号は箱館(函館)に行き、再び下田に戻り日本を離れた。そして1858(安政5)年6月、ポーハタン号が三たび日本にやって来た。日米修好通商条約締結のためである。

 神奈川沖に停泊したポーハタン号の艦上で、米国総領事のタウンゼント・ハリスと、幕府側全権の下田奉行・井上清直、海防掛目付・岩瀬忠震が、日米修好通商条約に調印した。これにより下田、箱館の2港に加え、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の4港が開港場となった。条約はオランダ、ロシア、イギリス、フランスの国々とも調印された。 

ポーハタン号が次に日本にやって来たのは、1859(安政6)年9月である。日米修好通商条約の批准書を交換する日本の使節団を、米国に運ぶ役目を背負っての来航だった。

このときポーハタン号は横浜に入港したあと、上海に向かい日本を離れるが、ふたたび横浜に戻ってくる。そして1860(安政7)年1月22日、日本の使節団を乗せ、横浜港を出発し、3月にサンフランシスコに到着した。

日本使節団を運ぶ役目を無事果たしたポーハタン号を、南北戦争が待っていた。北軍艦隊の旗艦として、メキシコ湾やカリブ海で数々の戦歴を残している。 

 

戦場に出るときにポーハタン号は、甲板上の構造物や艤装を変えている。「ジョン万次郎資料館」に展示されているポーハタン号の模型は、製作者の草柳さんがアメリカで入手した図面を基に作製されている。日本の使節団を乗せた時のポーハタン号は、後方甲板に日本の使節団のための船室を増設していたと言われている。

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