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「海の駅から」⑥

 日米修好通商条約の批准書を交換するために、日本使節団が太平洋をわたり、ワシントンに行くことになった。このとき米国は、ポーハタン号の提供を申し出る。ポーハタン号は、当時の米国海軍自慢の最新鋭軍艦である。

 その軍艦を乗組員ごと提供するというのだから、米国が最大限の配慮をしたと言える。幕府はそれを受け入れ、遣米使節団の正使一行をポーハタン号に乗船させるが、同時に日本独自の船を随行させることにする。

 なぜ随行船を出したのか。ポーハタン号に全面的に依存しては、幕府の面目が潰れる。日本人の力を誇示するためにも、自前の船を随行させるべきである。そうした幕府の意向が働いたとされる。しかし、その考えがいかに狭量で不遜で、現実を無視したものであったことか。

 日本はそれまで200年以上も鎖国をしており、日本人の海外渡航と帰国を禁止してきた。だから当時の日本人は、外洋の波の強さや荒さを全く知らない。ましてやその外洋を航海できる技術を持つ日本人など、居るはずもないのだ。

 自前の船と言ってみても、ペリーの来航に慌て、急いでオランダに建造を発注し、ようやく日本に届いたばかりの軍艦である。しかも乗組員は、日本の近海や湾内で訓練しただけの、外海を知らない水夫たちである。太平洋航路の距離も怖さも分かっていない。  

 その現実を冷静に判断すれば、ポーハタン号の向こうを張って、独自の船で太平洋を横断することの無謀さに気がつくはずである。だが幕府にその冷静さがなかった。

外洋航海の知識も経験もなく、プライドだけ高い幕閣たちが、面子と保身で随行艦の派遣を決定したのだ。まさに〈井の中の蛙大海を知らず〉である。

 

幕府は当初、随行艦を江戸号(朝陽丸)に決めるが観光丸に変更し、さらに咸臨丸に変更する。出航を前にしての二転三転ぶりからも、外洋航海に対する危機管理の乏しさが分かる。このリスクの多い航海を成功させる重要な役割を果たした人物がいる。ジョン万次郎である。

「海の駅から」⑤

 1854(嘉永7)年3月3日、日米和親条約が締結された。その調印式が終わるとポーハタン号は江戸湾を出て、僚艦・ミシシッピー号と開港の決まった下田に向かった。

 下田に停泊していたポーハタン号に、吉田松陰、金子重之輔が小舟で近寄り、密航を懇願する。司令官のペリーは、「幕府の許可のない者を乗船させることはできない」と拒否、士官に命じて2人を人目につかない海岸に送り返した。(2人が漕ぎ寄せたのはミシシッピー号との説もある)

 このあとポーハタン号は箱館(函館)に行き、再び下田に戻り日本を離れた。そして1858(安政5)年6月、ポーハタン号が三たび日本にやって来た。日米修好通商条約締結のためである。

 神奈川沖に停泊したポーハタン号の艦上で、米国総領事のタウンゼント・ハリスと、幕府側全権の下田奉行・井上清直、海防掛目付・岩瀬忠震が、日米修好通商条約に調印した。これにより下田、箱館の2港に加え、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の4港が開港場となった。条約はオランダ、ロシア、イギリス、フランスの国々とも調印された。 

ポーハタン号が次に日本にやって来たのは、1859(安政6)年9月である。日米修好通商条約の批准書を交換する日本の使節団を、米国に運ぶ役目を背負っての来航だった。

このときポーハタン号は横浜に入港したあと、上海に向かい日本を離れるが、ふたたび横浜に戻ってくる。そして1860(安政7)年1月22日、日本の使節団を乗せ、横浜港を出発し、3月にサンフランシスコに到着した。

日本使節団を運ぶ役目を無事果たしたポーハタン号を、南北戦争が待っていた。北軍艦隊の旗艦として、メキシコ湾やカリブ海で数々の戦歴を残している。 

 

戦場に出るときにポーハタン号は、甲板上の構造物や艤装を変えている。「ジョン万次郎資料館」に展示されているポーハタン号の模型は、製作者の草柳さんがアメリカで入手した図面を基に作製されている。日本の使節団を乗せた時のポーハタン号は、後方甲板に日本の使節団のための船室を増設していたと言われている。

「海の駅から」④

 「海の駅あしずり」のジョン万次郎資料館に展示されている帆船模型の中で、一番大きいのが「ポーハタン号」である。模型全体の大きさは全長220センチ、高さ130センチ、幅60センチ。他の模型にはない力強さと重量感がある。

 1850年に建造されたポーハタン号は、米国海軍の最後の外輪フリゲート艦となった。船体の長さ77・3メートル、幅13・6メートル、喫水高5・6メートルの最新鋭艦である。帆走する際には、外輪の水かき板を外し、波の抵抗を軽減するメカニズムになっていた。

 米国海軍の象徴的存在だったポーハタン号は、日本とも深い関わりを持っている。開国を巡る幕府の慌てぶりを、ポーハタン号は江戸前の海上からしっかり見つめていたのだ。

 1854(嘉永7)年1月に再び日本にやって来たマシュー・C・ペリーは、7隻の艦隊を江戸湾の奥深くまで乗り入れ、日米和親条約の締結を迫った。このときの艦隊の旗艦がポーハタン号である。

 物見高い江戸っ子たちは、威風堂々の艦隊を見に海辺に集まった。幕府は米国軍艦見物禁止令を出すほど混乱し、開国や外交に対する冷静な判断力や統治力を失っていた。

 幕府がようやく条約の締結を了承すると、ペリーは交渉にあたった幕府の応接掛りをポーハタン号に招待し、慰労会を開いた。艦上に米国国旗と徳川家の葵紋の旗を立て、音楽隊が演奏して幕府側を迎える歓待ぶりだった。

 林大学頭(はやしだいがくのかみ)を筆頭とする幕府応接掛りはざっと70人。訓練の行き届いた水兵たちが運んでくる豪華な料理に、さぞ驚き圧倒されたことだろう。

 

音楽隊の演奏をバックに、何度も乾杯が繰り返された。その友好ムードに浮かれ、応接掛りたちが初めての洋酒に酔う様子が、ペリー提督の日本遠征記に記録されている。幕府儒学者の松崎満太郎は酔った勢いでペリーの肩に腕を回し、「日本と米国、みんな同じ心」と、日本語で叫んだという。ポーハタン艦上のこの慰労会は、条約調印3日前のことだった。

「海の駅から」③

 マサチューセッツ州のニューベッドフォード。その隣町のフェアヘーブン。コネティカット州のミスティック。米国東海岸にあるこの三つの町を、草柳俊二教授が訪れたのは2012年3月だった。

 ニューベッドフォードは、万次郎たちを救出した捕鯨船ジョン・ハウランド号を建造した町であり、母港でもある。フェアヘーブンは、ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長の家がある町。ミスティックは、海と船をテーマにした海洋博物公園の町である。

 ニューベッドフォードには世界最大の捕鯨博物館がある。博物館は、かつて活躍した捕鯨船の復元図面を作成し販売している。ジョン・ハウランド号の図面はなかったけれど、草柳さんは、6種類の捕鯨船の図面を購入した。1枚5ドル程度だという。さらに博物館が所蔵している、ジョン・ハウランド号と思われる絵画を見せてもらう。

フェアヘーブンは、万次郎がホイットフィールド船長の家に寄宿して学校に通ったゆかりの町で、船長の家は「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」となって、大切に保存されている。ここで草柳さんは、ジョン・ハウランド号の復元概要図面を入手することができた。「米国ジョン万次郎会」のルーニー会長が、草柳さんの模型作製企画を知って、2枚の復元概要図面のコピーを提供してくれたのだ。

ミスティックの海洋博物公園では、1840年代初めに造られた捕鯨船チャールズ・モーガン号を見学した。建造された時期も場所も大きさも、ジョン・ハウランド号と近似しており、同時代に建造された中で、唯一残されている現物の捕鯨船である。

こうして米国の三つの町で収集した資料、情報、知識に加え、土佐の絵師・河田小龍が万次郎の話と記憶をもとに描いた絵も参考にした。集めた情報を丹念に分析し、総合的に組み立てて、ついにジョン・ハウランド号の模型を完成させた。母国の米国にもない世界で唯一の帆船模型が、日本の「ジョン万次郎資料館」に展示されている。

「海の駅から」②

 高知県の南端の足摺岬は、黒潮が最初に日本に接岸する地点だという。黒潮が日本列島と直接触れ合う唯一の場所との説もある。どちらにしても、地球の最大の大河・黒潮が、足摺岬の前を流れていることは変わらない。

 太平洋に突き出ている岬のふもとに、海の駅「あしずり」がある。そしてそこに「ジョン万次郎資料館」がある。資料館に12隻の帆船模型が展示されている。模型はすべて、高知工科大学大学院教授の草柳俊二さんが作製したものである。

 そのなかに世界に一つしかない貴重な模型がある。米国の捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の模型である。太平洋の孤島・鳥島で、生死の瀬戸際の無人島生活をしていた万次郎たちを救出したのが、ジョン・ハウランド号だった。1841(天保12)年6月27日のことである。

 ジョン・ハウランド号は、マサチューセッツ州にある捕鯨船基地の町・ニューベッドフォードで、1830年に建造された。長さ34メートル、幅8・3メートル、重さ377トン、3本マストの木造帆船で、当時の最新鋭の大型捕鯨船である。

 1800年代までの造船は、正確な設計図を描かずに模型を作り、模型をもとに建造するのが一般的だった。ジョン・ハウランド号の元図面も存在していない。オリジナルの設計図がなく、米国にもない帆船模型が、日本に存在しているのだ。

 米国でのジョン万次郎の評価は、日本人が知るよりもはるかに高い。ペリー提督が江戸幕府に開国を迫ったとき、日本語と英語の二つの言語を通訳、会話のできる日本人が、万次郎だった。のちに米国第30代大統領のジョン・クーリッジが万次郎を、「最初のアメリカ大使を日本に送ったに等しい」と称賛したほどである。

 米国人や日系人などで結成する「米国ジョン万次郎会」が、ジョン・ハウランド号の復元船の建造を計画したが、実現しなかった。草柳さんは、ジョン・ハウランド号の模型をどのようにして作製したのだろうか。


 

「海の駅から」①

 日本に初めて「駅」が登場したのは、646(大化2)年だという。大化の改新による中央集権政治を確立するため、中国・唐の駅制(駅伝)を導入したことによる。

 都から地方に延びる主要な街道に、一定の間隔(1520キロメートル)を置いて駅を設置した。駅には馬を常備して、中央の指令や文書を伝える役人が、駅で馬を乗り継いで先を急いだ。当時では最速の通信と交通の手段だった。

 やがて駅は宿(しゅく)に代わり、人馬の継立場としてだけでなく、飲食や宿泊など宿場の要素を拡大していく。江戸時代になると主要街道の宿は、江戸に参勤する大名にとっても、旅人や商人にとっても、なくてはならない場所となる。宿は繁華街の賑わいを呈し、街道に沿って旅籠が並ぶ宿場から、遊女たちの声が聞こえてきた。

 長い間、宿に主役の名をわたしてきた駅が、明治時代になってふたたび人々の注目を集める場所となって復活した。1872(明治5)年に日本初の鉄道が、新橋と横浜の間を走り出したからである。

富国強兵を急ぐ明治政府は、驚異的な速さで鉄道建設を進め、全国各地に駅が誕生した。駅と言えば鉄道の駅のことであり、駅前通りはその町の目抜き通りになっていった。その時代がざっと100年続いた。

現在は駅と言っても、鉄道の駅とは限らない。道の駅、海の駅、まちの駅、里の駅などさまざまな駅がある。山の駅、川の駅、水の駅、風の駅、森の駅などもあるらしい。

でも数の多いのはやはり鉄道の駅である。地下鉄、路面電車、モノレールも含めて鉄道の駅は、全国で9716駅あるという。道の駅は1040カ所。

海と陸どちらからでもアプローチできるマリンレジャーの振興拠点としてつくられたのが、海の駅である。発祥の地は瀬戸内海で、2000(平成12)年に設置された「ゆたかの海の駅」(広島県豊町)が第1号で、今は150ほどに増えているらしい。その一つを訪ねてみた。

第9回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年9月3日(水)】

 

※こちらの記事は池道之助の五代目子孫、鈴木典子さんの解釈版となっております

 鈴木さんの意向を踏まえて頂いた原稿をそのまま掲載しております。ご了承くださいませ。 

 

池道之助の旅日記紹介9

 

キリストの話から

 私はクリスチャンですから、キリストに関することに興味があります。

 道之助の記録を読み進めながらキリストに関する言葉が出ていることに気付き、それらについての読みを始めました。まず、サンデーに行ったという記録が出ていてその日付を辿ってみました。すると、7日ごとになっています。

(ここからが私の勝手な解釈です)

これは、日曜日に宣教師のもとにお話を聞きに出かけたのではないか、と想像して礼拝に出かける道之助おじい様の姿を思い浮かべたのです。素敵でしょ。

 当時の幕末の志士たちは、聖書の教えをほとんどの若者が学んでいたという話を聞きました。納得のできることです。坂本龍馬の率いる海援隊の若者たちも学んでいたのです。彼らは新しい日本をつくるために、外国文化の良いところを取り入れようとしていたのです。そのためには、活動資金が必要です。龍馬は亀山社中という会社で貿易の働きを始めて、いわば社長であったのです。

有名な、「いろは丸」事件の話があります。これは龍馬が貿易商売に使う船が沈められた事件の事ですが、貿易商の交渉ですから多額の賠償を相手に吹っかけたのです。これは交渉術です。あまりの多額のため、紀州の武士は内々に下げてくれるように土佐藩に交渉しています。道之助の記録では決着額は八十万両と記していて、これは筆の誤りで十を加えてしまったらしく八万両が正しいのです。この決定額が高く、それを下げるための日夜の話の様子が出ています。最終的には六万なにがしかの額で決着したようです。この辺りを想像していると、独りでおかしくてお腹を抱えて笑ってしまいます。

 話は飛びます。万次郎が帰国してから民主主義の交渉の仕方を随分政府に説明していたらしいのですが、この龍馬の交渉は万次郎の民主主義の話から影響を受けたものではないかと思われます。対等に話し合いに臨む姿です。龍馬は賢い人ですから、この辺りを良く学んでいたのでしょう

 この年は、慶応三年の出来事です。この1年の大変な出来事については次に記します。

 翻ってキリストの話に戻ります。「今日、浦上ミノとその家族 残念にも召し捕らえられる キリシタン宗の事である」とあります。

 龍馬伝の最中、長崎に鈴木と車で出かけました。その際、元土佐商会の跡地である博物館に入りました。その案内役の方から、当時のバテレン(キリスト者)狩りの話を聞きました。三度のバテレン狩りがあり、道之助の記録の物は最も大きなもので、一度に千人以上の隠れキリシタンが捕えられたのです。故に、道之助は記録に残したのでしょう。彼らは、再び長崎の地に戻ることはなかったようです。五島列島に流されたりしています。国外(長崎国以外)に散らされたのです。四国にも渡っています。このような話について、詳しく調査しても学術論文になります。

 又、道之助の「今日からフランス教師アメリカ教師になる」と言うような記録を見ると教えを受けていた宣教師の入れ替えかな、と想像するのです。

 万次郎が案内して行ったイギリス随一の金持ちと言われた商売人や各国の商業施設にも拘らず、彼らがジパン国(マルコ・ポーロの東方見聞録の記録から)と呼んでいた日本国を植民地化出来なかった理由が以上、述べた中にあります。

 日本人は、良く学ぶ民族であること。又、良い意味で武士階級の者たちは対等に話をする勇気を持っていたこと。自分の意見を持っていたということも大きな要素です。

 ここで、寺子屋教育の素晴らしさを見ることが出来ると私は当時の教育の底力を偲んでいるのです。

 

 

第8回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年8月6日(水)】

 

※こちらの記事は池道之助の五代目子孫、鈴木典子さんの解釈版となっております

 鈴木さんの意向を踏まえて頂いた原稿をそのまま掲載しております。ご了承くださいませ。 

 

池道之助の旅日記紹介8

 

~カレーライスの話から~

道之助の記録の中に、マ子カレ馳走になる、という記録がある。土佐史談の研究家が活字にしていた物を読み砕いていて、この言葉に会った。

ハタッと考え込んでしまったのである。頭をかかえてしまった。ハテ、何のことであろうかと。ここから前に進まない。1~2日経ったであろうか、もしかしたらカレーライスの事ではないかと、ひらめいたのである。

 これらの研究と苦労話をとんでもない訳を含めて、鈴木が小冊子を印刷してくれて高知の坂本龍馬記念館の研究発表で話をさせていただいたのである。

 その際「マ子カレ」の話に対して、色々ご意見を頂いたのである。その中に「当時の長崎で数種類のスパイスを使ってカレーライスが作られていた、と言う記録がある」と言って下さる研究家もいらっしゃった。

 研究に入り始めた当時の私には、全てが驚きと感動であったが今日冷静になって考えてみると文明開化の日本には世界の珍味が集結していたのは当たり前のことである。

 道之助を始めとして内地留学に長崎に来ていた有能な若者にとっては、全ての物が新しく心躍らせる物ばかりであったと想像できるのである。彼らは、外国語を学び、新政府のもとで諸外国との取引にも役立つよう備えていったものと考えられる。

 道之助の記録の中には、明治維新に携わった有名人の名が沢山出ている。ただし彼らの中には命を狙われた者もいたのでそのままの名前で出ているとは限らない。例えば、よく知られている坂本龍馬は、才谷梅太郎と言う名で出ている場合もあり長州(山口県)の伊藤博文は伊藤俊輔と出ている。井上馨は井上聞多と記録にあり、これらの人名をピックアップしていくだけでも大きな歴史研究の材料になるのである。

食物についても、砂糖を溶かして飲む記録や、パンと乳、シャンパンをご馳走になったことや、豚のヘラヤキを食べたことなどが記されている。

 道之助が筆舌に尽くし難しと記している内容は、主に景色の美しさや壮大さ、また、長崎でオーケストラの路上演奏を外国女性が美しく着飾ってきて鑑賞する様子など、実に美しい表現としてあらわしている。これらは、現代のクラッシック音楽に対する几帳面な態度をあらわす風景として私は想像を馳せているのです。今回はこの辺りで。

 

→池道之助の旅日記紹介9へ続く

第7回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年7月16日(水)】

 

※こちらの記事は池道之助の五代目子孫、鈴木典子さんの解釈版となっております

 鈴木さんの意向を踏まえて頂いた原稿をそのまま掲載しております。ご了承くださいませ。 

 

池道之助の旅日記紹介7

 

 いよいよ、長崎での目まぐるしい日々が始まります。日記を読み返す度に、当時の長崎での様子が手に取るように読者に伝わってきます。

丸山で接待をしたり、グラバに出かけたり、上野の写真館に出かけたり、部屋で写し物をしたり、牛乳とパンを馳走になったり、と記されています。中濱の様子も記されています。

上海行きの準備の最中、中濱氏は江戸へも出帆しています。しかし、何かいいことが決まると昼間は多忙でも、夜は十陽亭(料亭の名前)に行き馳走に合い、宿から宿の家内が賑わいの為に芸子を二人連れて参加してくれたりして接待をしてくれています。

第一回目の上海行きのメンバーが決まります。

後藤象二郎殿 中濱万次郎殿

高橋勝蔵御用人勘定方として行く(会計係)

森田幾七 中濱万次郎従者として

由比珪三良士 松井周助士(英国留学の男)

〆て六人がこの度の上海行き

其外 宇和島の士賀来幸右衛門同(宇和島)上田亮太良又一人は加賀の家中、以上の三人は便売(有料)なり。

 

ここで私が注目したいのは、お役目への敬称つかいです。なので、後藤象二郎朗殿

中濱万次郎殿 由比珪(たま)三良士 松井周助士等の敬称です。余計なことではあるが、後藤 中濱と記されてある部分もあるところを見ると、その行動によって道之助は暗に記したものと思われる。その意を持って池道之助日記を読み進めて行くと、さらに深く内容がつかめると思うのです。

 ここからは、少し省略して話を進めますので気になる方は現代語訳池道之助日記をご覧ください。

 

この時、私も同行する筈であったが人数も多く物入りも大変であり、それに私が行くとなると北村治三郎殿も行くと申すので、会計係が心配しているので止めにした。

中濱殿にも実に残念に思っていただいたのである船中の異人のまかないだけでも一人あたり金三両ずつの支払いが必要であると申し上げたのである。

蒸気船 帆船とも二艘買い付ける予定であるが、長崎湊には乗り付けていないので、上海にまで行くのである。二十六日の早朝長崎湊を出帆する。

一行の出発した後、土佐商会は静かで、「・・・静かでとてもよろしい・・・・今日は夜前のくたびれにて休息・・・」と記され、万次郎の従者の與惣次と一緒に仕事の為に動き回っている様子がうかがえます。

この辺りから、道之助の体調不良の記録が出てきます。また次回に。

 

 

→池道之助の旅日記紹介8へ続く

 

 

 

第6回 池道之助の旅日記紹介

 【発信日:2014年7月2日(水)】

 

※こちらの記事は池道之助の五代目子孫、鈴木典子さんの解釈版となっております

 鈴木さんの意向を踏まえて頂いた原稿をそのまま掲載しております。ご了承くださいませ。 

 

池道之助の旅日記紹介6

 

一つの小門に入り、一人の女が出てきて さあ おあがりなさいと座敷に通された

横山に向かい「このような 良ろしき場所に連れて来るのであれば、前以て言ってくれればよいものを 私は寝間着(部屋着)一枚で脇差一つのまま来てしまった。分かっていれば少し身支度をして来たものを」横山答えて、「貴方は知っておれば参加しないであろうと思って欺いたのである」

 三人座れば茶 煙草盆をその家の家内持ってきて 酒と「肴」(さかな)を出し 皿鉢二つ どんぶり三つ。

 横山熊次が申すには 芸子二人を呼んでくれと。程なく来たり。十六七歳あまりの おここと申す芸子が三味を持って来た。一つ二つ酒を呑み三味を引き掛けるが、横山は土佐風の▽土佐の高知のはりまや橋で ぼんさん メガネを買い寄った などのふしを頻りに歌い 芸子には持ち歌を歌わせる。西川の番頭と私は 酒を呑まず実に退屈した。番頭熊次とささやき、身ごしらえをして、脇差を差し、煙草入れと手拭いを取り、盆おどりをしながら、煙に巻いて、横山を一人残して、提灯をかり、勝手口から松次郎と二人が帰ったのは四つ頃(深夜2時)である。

金を惜しんで抜け帰ると思われては恥ずかしいので、おどりの前に、おどりの芸子へは三朱(さんしゅ(※金銭の単位))肴代として渡しておいた。

翌日五日、横山に会い、大笑いした。代金は一歩二朱掛け代(※後払い)として承る あげ屋にしてはどうして安いか。それは料理屋の故であると。

‘知らぬ道 ただうかうかと来てみれば 芸子舞子で馬鹿になりしや’(道之助のヒニクでしょうか)

 

五日曇り雨ぼろぼろ或いは晴れ 今日昼飯済ませてより中濱氏とイギリス人ガラマ方へ行くが、ガラマはじぶんの心配りの良いところや珍しいことなどを言うばかりである。万次郎が言うにはイギリス第一の金持ちであり、諸国に店を出しているらしい。奥行き二十間ばかりの蔵 六間を見せてくれる。大砲小砲夥しく(おびただしく)見物致す。其の後に上茶菓子馳走になる。その最中ガラマが中濱氏に向かい、この人に茶の製造所を見学してもらうと、自ら案内して残すところなく全て見物した。それから、又御馳走に合う。帰り際には、手と手を取り ぐうりで ぐうりでと言って私は帰り来る。(西洋式の挨拶 即ち握手の場面であろう)以下、道之助のスケッチが載せられてある。

 

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→池道之助の旅日記紹介7へ続く

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