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2015年09月02日の記事は以下のとおりです。

「海の駅から」④

 「海の駅あしずり」のジョン万次郎資料館に展示されている帆船模型の中で、一番大きいのが「ポーハタン号」である。模型全体の大きさは全長220センチ、高さ130センチ、幅60センチ。他の模型にはない力強さと重量感がある。

 1850年に建造されたポーハタン号は、米国海軍の最後の外輪フリゲート艦となった。船体の長さ77・3メートル、幅13・6メートル、喫水高5・6メートルの最新鋭艦である。帆走する際には、外輪の水かき板を外し、波の抵抗を軽減するメカニズムになっていた。

 米国海軍の象徴的存在だったポーハタン号は、日本とも深い関わりを持っている。開国を巡る幕府の慌てぶりを、ポーハタン号は江戸前の海上からしっかり見つめていたのだ。

 1854(嘉永7)年1月に再び日本にやって来たマシュー・C・ペリーは、7隻の艦隊を江戸湾の奥深くまで乗り入れ、日米和親条約の締結を迫った。このときの艦隊の旗艦がポーハタン号である。

 物見高い江戸っ子たちは、威風堂々の艦隊を見に海辺に集まった。幕府は米国軍艦見物禁止令を出すほど混乱し、開国や外交に対する冷静な判断力や統治力を失っていた。

 幕府がようやく条約の締結を了承すると、ペリーは交渉にあたった幕府の応接掛りをポーハタン号に招待し、慰労会を開いた。艦上に米国国旗と徳川家の葵紋の旗を立て、音楽隊が演奏して幕府側を迎える歓待ぶりだった。

 林大学頭(はやしだいがくのかみ)を筆頭とする幕府応接掛りはざっと70人。訓練の行き届いた水兵たちが運んでくる豪華な料理に、さぞ驚き圧倒されたことだろう。

 

音楽隊の演奏をバックに、何度も乾杯が繰り返された。その友好ムードに浮かれ、応接掛りたちが初めての洋酒に酔う様子が、ペリー提督の日本遠征記に記録されている。幕府儒学者の松崎満太郎は酔った勢いでペリーの肩に腕を回し、「日本と米国、みんな同じ心」と、日本語で叫んだという。ポーハタン艦上のこの慰労会は、条約調印3日前のことだった。

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