エントリー

2015年09月の記事は以下のとおりです。

「海の駅から」⑨

 木村摂津守は幕府に対し、ジョン万次郎を咸臨丸の乗組員に加えることの必要性を、強く訴えた。万次郎が日本語と英語を通訳できるだけでなく、非常に高度な操船技術、航海技術の持ち主であることを知っていたからだ。

 米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に無人島から救出された万次郎は、米国本土にわたり英語、数学、測量術、航海術、造船技術を学んだ。さらに捕鯨船の乗組員となって技術を磨き、一等航海士にまでなっている。

 4年余にわたる万次郎の捕鯨生活の航海軌跡を見ると太平洋、大西洋、インド洋、南米大陸最南端のホーン岬、アフリカ大陸最南端の喜望峰など、世界の海のほぼ全域におよんでいる。スエズ運河もパナマ運河もない時代に、これほど広域の航海を経験した人間は少ないはずである。もちろん日本人は万次郎だけであろう。

咸臨丸の太平洋横断に、万次郎の技術と経験が必要と考えた木村摂津守の判断は正しい。木村の要求がようやく通り、万次郎が咸臨丸の乗組員に加わることになった。だが航海士としてではなく通訳としてであった。

万次郎が咸臨丸に乗船することに、幕府がなぜ難色を示したのか。『中濱万次郎』(中濱博、冨山房インターナショナル)はこう記している。

〈勘定奉行らの評議では万次郎が同行すると「意外ノ弊害モ生ズベキ懸念」があるので、オランダ通詞を含めて、他の通訳を行かせるべきであるという。しかし、評議の結果、軍艦奉行も行くので弊害を生じることはないだろう、ということで乗船が決まった。このことは、万次郎をよく見張っていろということで、後にいろいろなことでこの「監視の目」が邪魔になる。「意外ノ弊害」とは、まだ、万次郎がアメリカ側に有利な通訳をしないか、あるいはスパイをしないかという疑いをもたれていたことを指す〉

開国までの日本の“外国語”はオランダ語であり、それにあぐらをかいてきた幕閣や通詞たちが保身のために、万次郎の乗船に反対したようすも伝わってくる。

 

 

「海の駅から」⑧

 米国政府が提供した軍艦・ポーハタン号に乗船して、日本の遣米使節団が米国に向かう。その使節団を咸臨丸に「護衛」させるというのが、幕府が出した政策だった。

 ポーハタン号は米国海軍が誇る最新鋭の軍艦である。日本に何度も来航し、ハワイ諸島、琉球諸島に補給基地を築いており、太平洋航路はいわばホームグラウンドである。

乗組員は操舵、操帆、天測、気象、砲撃などの優れた技術と知識を持つプロたちと、指揮と規律で行動することを訓練された水兵たちである。おそらく当時の世界最大最強の軍艦であろう。排水量が3765トンもあった。

一方の咸臨丸は排水量620トン、ポーハタン号の6分の1である。士官の乗組員は海軍伝習所で教習を受けてはいるが、遠洋航海の経験はない。水夫、火夫と呼ばれた乗組員たちは、外洋航海の経験がないだけでなく、蒸気機関のスクリュー船に乗り込むのが初めてという者も、少なくなかった。

ポーハタン号と咸臨丸は、質量ともに格も桁も違っていた。その咸臨丸に「護衛」させるというのだ。現場を無視して権威にこだわり続ける幕閣たちの、不遜さが透けている。

そうした無責任な策に危惧を募らせた人物がいる。咸臨丸の司令官に任命された木村摂津守である。木村は長崎海軍伝習所の「取締」の職に就いたことがあり、伝習生たちの実力、能力がどの程度か見当がついた。

木村は日本人の乗組員だけでの太平洋航海は、無理と判断した。無事に太平洋を横断して、幕府の面目を保つためにも、外洋航海に熟練した船乗りを同乗させなければいけないと考えた。

 

木村は、横浜に滞在中の米国海軍大尉ブルック艦長とその部下とジョン万次郎を、咸臨丸の乗組員に加えるために動き出す。ブルック艦長が率いる米国の測量船フェニモア・クーパー号が、横浜沖に停泊中に時化の波をうけ座礁し、船体が破損し航海不能になり、ブルック艦長と乗組員が、米国に帰る船を待っている時だった。

「海の駅から」⑦

 日本の使節団が乗るポーハタン号に随行する幕府の船が、朝陽丸から観光丸に、そして咸臨丸に変更された。出航前になぜ慌しく変更したのか。諸説があり、いくつかの推測も成り立つけれど、確証はない。

 記録によると、朝陽丸は、幕府がオランダに発注した軍艦。全長49メートル、全幅7・27メートル、排水量300トン、3本マスト、100馬力蒸気機関。日本に来たのは1858(安政5)年である。

 観光丸は、1855(安政2)年にオランダ国王から江戸幕府に贈呈され、長崎海軍伝習所の最初の練習艦となった。全長65・8メートル、全幅9メートル、排水量353トン、3本マスト、150馬力蒸気機関。

 咸臨丸は、朝陽丸と前後して同じ造船所で建造された軍艦。全長49メートル、全幅8・74メートル、排水量620トン、3本マスト、100馬力蒸気機関。朝陽丸より1年早く日本に到着、海軍伝習所の練習艦に使用された。

 朝陽丸、観光丸、咸臨丸はいずれもオランダで建造され、オランダ人船員によって大西洋、インド洋を経由して日本に回航されてきた。従って、3艦とも太平洋航路を横断していない。

 一方、咸臨丸の乗組員はどのように編成されたのだろうか。幕府は軍艦奉行並の木村摂津守喜毅を軍艦奉行に昇格させ、咸臨丸の司令官に任命した。乗組員士官には、海軍伝習所や軍艦操錬所の関係者や卒業生などが選ばれた。その中には、長崎海軍伝習所第一期生の勝海舟もいた。

 だが伝習所の訓練は、オランダ人教官による軍艦操縦の基本習得が中心だった。実践的な航海技術を体得し、荒海の恐怖に耐えられる心身をつくる本格的な遠洋航海訓練は行っていない。

 

それでも幕臣たちは日本独自の船と日本人乗組員で、太平洋を横断できると考えていた。しかしその実態は、太平洋横断の実績や経験がない船と乗組員という状況だった。そうした幕府の拙速な対応が、随行艦の選定の二転三転に現れている。

「海の駅から」⑥

 日米修好通商条約の批准書を交換するために、日本使節団が太平洋をわたり、ワシントンに行くことになった。このとき米国は、ポーハタン号の提供を申し出る。ポーハタン号は、当時の米国海軍自慢の最新鋭軍艦である。

 その軍艦を乗組員ごと提供するというのだから、米国が最大限の配慮をしたと言える。幕府はそれを受け入れ、遣米使節団の正使一行をポーハタン号に乗船させるが、同時に日本独自の船を随行させることにする。

 なぜ随行船を出したのか。ポーハタン号に全面的に依存しては、幕府の面目が潰れる。日本人の力を誇示するためにも、自前の船を随行させるべきである。そうした幕府の意向が働いたとされる。しかし、その考えがいかに狭量で不遜で、現実を無視したものであったことか。

 日本はそれまで200年以上も鎖国をしており、日本人の海外渡航と帰国を禁止してきた。だから当時の日本人は、外洋の波の強さや荒さを全く知らない。ましてやその外洋を航海できる技術を持つ日本人など、居るはずもないのだ。

 自前の船と言ってみても、ペリーの来航に慌て、急いでオランダに建造を発注し、ようやく日本に届いたばかりの軍艦である。しかも乗組員は、日本の近海や湾内で訓練しただけの、外海を知らない水夫たちである。太平洋航路の距離も怖さも分かっていない。  

 その現実を冷静に判断すれば、ポーハタン号の向こうを張って、独自の船で太平洋を横断することの無謀さに気がつくはずである。だが幕府にその冷静さがなかった。

外洋航海の知識も経験もなく、プライドだけ高い幕閣たちが、面子と保身で随行艦の派遣を決定したのだ。まさに〈井の中の蛙大海を知らず〉である。

 

幕府は当初、随行艦を江戸号(朝陽丸)に決めるが観光丸に変更し、さらに咸臨丸に変更する。出航を前にしての二転三転ぶりからも、外洋航海に対する危機管理の乏しさが分かる。このリスクの多い航海を成功させる重要な役割を果たした人物がいる。ジョン万次郎である。

「海の駅から」⑤

 1854(嘉永7)年3月3日、日米和親条約が締結された。その調印式が終わるとポーハタン号は江戸湾を出て、僚艦・ミシシッピー号と開港の決まった下田に向かった。

 下田に停泊していたポーハタン号に、吉田松陰、金子重之輔が小舟で近寄り、密航を懇願する。司令官のペリーは、「幕府の許可のない者を乗船させることはできない」と拒否、士官に命じて2人を人目につかない海岸に送り返した。(2人が漕ぎ寄せたのはミシシッピー号との説もある)

 このあとポーハタン号は箱館(函館)に行き、再び下田に戻り日本を離れた。そして1858(安政5)年6月、ポーハタン号が三たび日本にやって来た。日米修好通商条約締結のためである。

 神奈川沖に停泊したポーハタン号の艦上で、米国総領事のタウンゼント・ハリスと、幕府側全権の下田奉行・井上清直、海防掛目付・岩瀬忠震が、日米修好通商条約に調印した。これにより下田、箱館の2港に加え、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の4港が開港場となった。条約はオランダ、ロシア、イギリス、フランスの国々とも調印された。 

ポーハタン号が次に日本にやって来たのは、1859(安政6)年9月である。日米修好通商条約の批准書を交換する日本の使節団を、米国に運ぶ役目を背負っての来航だった。

このときポーハタン号は横浜に入港したあと、上海に向かい日本を離れるが、ふたたび横浜に戻ってくる。そして1860(安政7)年1月22日、日本の使節団を乗せ、横浜港を出発し、3月にサンフランシスコに到着した。

日本使節団を運ぶ役目を無事果たしたポーハタン号を、南北戦争が待っていた。北軍艦隊の旗艦として、メキシコ湾やカリブ海で数々の戦歴を残している。 

 

戦場に出るときにポーハタン号は、甲板上の構造物や艤装を変えている。「ジョン万次郎資料館」に展示されているポーハタン号の模型は、製作者の草柳さんがアメリカで入手した図面を基に作製されている。日本の使節団を乗せた時のポーハタン号は、後方甲板に日本の使節団のための船室を増設していたと言われている。

「海の駅から」④

 「海の駅あしずり」のジョン万次郎資料館に展示されている帆船模型の中で、一番大きいのが「ポーハタン号」である。模型全体の大きさは全長220センチ、高さ130センチ、幅60センチ。他の模型にはない力強さと重量感がある。

 1850年に建造されたポーハタン号は、米国海軍の最後の外輪フリゲート艦となった。船体の長さ77・3メートル、幅13・6メートル、喫水高5・6メートルの最新鋭艦である。帆走する際には、外輪の水かき板を外し、波の抵抗を軽減するメカニズムになっていた。

 米国海軍の象徴的存在だったポーハタン号は、日本とも深い関わりを持っている。開国を巡る幕府の慌てぶりを、ポーハタン号は江戸前の海上からしっかり見つめていたのだ。

 1854(嘉永7)年1月に再び日本にやって来たマシュー・C・ペリーは、7隻の艦隊を江戸湾の奥深くまで乗り入れ、日米和親条約の締結を迫った。このときの艦隊の旗艦がポーハタン号である。

 物見高い江戸っ子たちは、威風堂々の艦隊を見に海辺に集まった。幕府は米国軍艦見物禁止令を出すほど混乱し、開国や外交に対する冷静な判断力や統治力を失っていた。

 幕府がようやく条約の締結を了承すると、ペリーは交渉にあたった幕府の応接掛りをポーハタン号に招待し、慰労会を開いた。艦上に米国国旗と徳川家の葵紋の旗を立て、音楽隊が演奏して幕府側を迎える歓待ぶりだった。

 林大学頭(はやしだいがくのかみ)を筆頭とする幕府応接掛りはざっと70人。訓練の行き届いた水兵たちが運んでくる豪華な料理に、さぞ驚き圧倒されたことだろう。

 

音楽隊の演奏をバックに、何度も乾杯が繰り返された。その友好ムードに浮かれ、応接掛りたちが初めての洋酒に酔う様子が、ペリー提督の日本遠征記に記録されている。幕府儒学者の松崎満太郎は酔った勢いでペリーの肩に腕を回し、「日本と米国、みんな同じ心」と、日本語で叫んだという。ポーハタン艦上のこの慰労会は、条約調印3日前のことだった。

ページ移動

  • 前のページ
  • 次のページ
  • ページ
  • 1

ユーティリティ

2015年09月

- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -