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2015年08月の記事は以下のとおりです。

「海の駅から」③

 マサチューセッツ州のニューベッドフォード。その隣町のフェアヘーブン。コネティカット州のミスティック。米国東海岸にあるこの三つの町を、草柳俊二教授が訪れたのは2012年3月だった。

 ニューベッドフォードは、万次郎たちを救出した捕鯨船ジョン・ハウランド号を建造した町であり、母港でもある。フェアヘーブンは、ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長の家がある町。ミスティックは、海と船をテーマにした海洋博物公園の町である。

 ニューベッドフォードには世界最大の捕鯨博物館がある。博物館は、かつて活躍した捕鯨船の復元図面を作成し販売している。ジョン・ハウランド号の図面はなかったけれど、草柳さんは、6種類の捕鯨船の図面を購入した。1枚5ドル程度だという。さらに博物館が所蔵している、ジョン・ハウランド号と思われる絵画を見せてもらう。

フェアヘーブンは、万次郎がホイットフィールド船長の家に寄宿して学校に通ったゆかりの町で、船長の家は「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」となって、大切に保存されている。ここで草柳さんは、ジョン・ハウランド号の復元概要図面を入手することができた。「米国ジョン万次郎会」のルーニー会長が、草柳さんの模型作製企画を知って、2枚の復元概要図面のコピーを提供してくれたのだ。

ミスティックの海洋博物公園では、1840年代初めに造られた捕鯨船チャールズ・モーガン号を見学した。建造された時期も場所も大きさも、ジョン・ハウランド号と近似しており、同時代に建造された中で、唯一残されている現物の捕鯨船である。

こうして米国の三つの町で収集した資料、情報、知識に加え、土佐の絵師・河田小龍が万次郎の話と記憶をもとに描いた絵も参考にした。集めた情報を丹念に分析し、総合的に組み立てて、ついにジョン・ハウランド号の模型を完成させた。母国の米国にもない世界で唯一の帆船模型が、日本の「ジョン万次郎資料館」に展示されている。

「海の駅から」②

 高知県の南端の足摺岬は、黒潮が最初に日本に接岸する地点だという。黒潮が日本列島と直接触れ合う唯一の場所との説もある。どちらにしても、地球の最大の大河・黒潮が、足摺岬の前を流れていることは変わらない。

 太平洋に突き出ている岬のふもとに、海の駅「あしずり」がある。そしてそこに「ジョン万次郎資料館」がある。資料館に12隻の帆船模型が展示されている。模型はすべて、高知工科大学大学院教授の草柳俊二さんが作製したものである。

 そのなかに世界に一つしかない貴重な模型がある。米国の捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の模型である。太平洋の孤島・鳥島で、生死の瀬戸際の無人島生活をしていた万次郎たちを救出したのが、ジョン・ハウランド号だった。1841(天保12)年6月27日のことである。

 ジョン・ハウランド号は、マサチューセッツ州にある捕鯨船基地の町・ニューベッドフォードで、1830年に建造された。長さ34メートル、幅8・3メートル、重さ377トン、3本マストの木造帆船で、当時の最新鋭の大型捕鯨船である。

 1800年代までの造船は、正確な設計図を描かずに模型を作り、模型をもとに建造するのが一般的だった。ジョン・ハウランド号の元図面も存在していない。オリジナルの設計図がなく、米国にもない帆船模型が、日本に存在しているのだ。

 米国でのジョン万次郎の評価は、日本人が知るよりもはるかに高い。ペリー提督が江戸幕府に開国を迫ったとき、日本語と英語の二つの言語を通訳、会話のできる日本人が、万次郎だった。のちに米国第30代大統領のジョン・クーリッジが万次郎を、「最初のアメリカ大使を日本に送ったに等しい」と称賛したほどである。

 米国人や日系人などで結成する「米国ジョン万次郎会」が、ジョン・ハウランド号の復元船の建造を計画したが、実現しなかった。草柳さんは、ジョン・ハウランド号の模型をどのようにして作製したのだろうか。


 

「海の駅から」①

 日本に初めて「駅」が登場したのは、646(大化2)年だという。大化の改新による中央集権政治を確立するため、中国・唐の駅制(駅伝)を導入したことによる。

 都から地方に延びる主要な街道に、一定の間隔(1520キロメートル)を置いて駅を設置した。駅には馬を常備して、中央の指令や文書を伝える役人が、駅で馬を乗り継いで先を急いだ。当時では最速の通信と交通の手段だった。

 やがて駅は宿(しゅく)に代わり、人馬の継立場としてだけでなく、飲食や宿泊など宿場の要素を拡大していく。江戸時代になると主要街道の宿は、江戸に参勤する大名にとっても、旅人や商人にとっても、なくてはならない場所となる。宿は繁華街の賑わいを呈し、街道に沿って旅籠が並ぶ宿場から、遊女たちの声が聞こえてきた。

 長い間、宿に主役の名をわたしてきた駅が、明治時代になってふたたび人々の注目を集める場所となって復活した。1872(明治5)年に日本初の鉄道が、新橋と横浜の間を走り出したからである。

富国強兵を急ぐ明治政府は、驚異的な速さで鉄道建設を進め、全国各地に駅が誕生した。駅と言えば鉄道の駅のことであり、駅前通りはその町の目抜き通りになっていった。その時代がざっと100年続いた。

現在は駅と言っても、鉄道の駅とは限らない。道の駅、海の駅、まちの駅、里の駅などさまざまな駅がある。山の駅、川の駅、水の駅、風の駅、森の駅などもあるらしい。

でも数の多いのはやはり鉄道の駅である。地下鉄、路面電車、モノレールも含めて鉄道の駅は、全国で9716駅あるという。道の駅は1040カ所。

海と陸どちらからでもアプローチできるマリンレジャーの振興拠点としてつくられたのが、海の駅である。発祥の地は瀬戸内海で、2000(平成12)年に設置された「ゆたかの海の駅」(広島県豊町)が第1号で、今は150ほどに増えているらしい。その一つを訪ねてみた。

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