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2014年06月の記事は以下のとおりです。

第5回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年6月16日(月)】

 

※こちらの記事は池道之助の五代目子孫、鈴木典子さんの解釈版となっております

 鈴木さんの意向を踏まえて頂いた原稿をそのまま掲載しております。ご了承くださいませ。 

 

池道之助の旅日記紹介 第5回

 

今日、読書についての相談に出かける。幸い同宿の溝渕寅丞様に頼む。「中濱が本の世話をしてくれる筈になっているので本が見つかり次第知らせがある」との話である。

 今晩、幾七殿と浜の町辺に遊びに行き、浄瑠璃を聞き、帰る。

八月二日天気 朝 中濱は船に行き、昼帰る。後藤様、松井、由比様 レーマンへ行く

(※レーマン:長崎出島にて、武器商人として活躍していた人物)

今日、三里に灸を致す。金具やから煙草のかな具を買い求める。二朱一厘を払う。

中濱夜に入り帰る。

三日天気 今朝庄衛へ先に払っている濱奥の反物代金の催促状を付けて手紙を頼みに行く。

中濱氏は宇和島侍上田亮太、賀来幸右衛門、松井周助様の四人をブタのヘラヤキにて酒宴を致す。それから昼頃一同出ていく。その後私は買い物に出かけ、メガネ、ビン、鏡、筆、セッタ、羽織の紐、ペンを買い求める。筆は唐人の筆、一本が一朱に付き十本買う。

四日曇り 天気 中濱 後藤 松井様四人は軍艦へ行く。私は読書 写し物致す 

昼より曇り日暮れより大振り 夕飯を食して休憩をしている所に、後藤様の家来横山熊次が来られ、今晩若宮の辺りが甚だ賑やかであるので、見物に行かないかとさそわれた。

私も行こうか行くまいかと考えていたところで、神祭りのことで、何か珍しいことも有るであろうと考え、それに距離が3丁余りの場所であり、心安く思い、同意することにしたものの、もし茶屋などに誘われると難儀になると愚慮して西川氏の番頭松次郎を誘い三人で行く。松次郎を誘った訳は如何なることありても、今宵は宿に帰る積りである故に。(この辺りは道之助の茶目っ気の入った記録で、大人の笑い飛ばしの話と受け取るべきであり、真剣な話ではない)横山先に行きけるが、凡町を数四五丁(4~5丁)も行くと自然と人通りも少なく、神祭りの様子も少しも見えず、遠くに来たので帰るべしと言うと、横山曰く、最早近づいたので遠慮はいらぬと、色々話しながら又…(次回に続く)

 

※西川「」の番頭とある。余程の信用と、確かな人物に対する表現であります。

 

当時敬称のつく場合は意味があり、後藤様についても後藤と記している場合がありますが、御用を外れての場合にそのままの記録ではなかったかなと考えています。中濱についても旅の途中から表現が違ってきます。その用向きと役目が敬称に記されているのです。道之助は正直者ですから、そして自分の日記であるために思いを素直に表したのでしょう。これは誰にでも言えるそのままの気持ちです。

 

→池道之助の旅日記紹介6へ続く

第4回 池道之助の旅日記紹介

【発信日:2014年6月1日(日)】

 

※こちらの記事は池道之助の五代目子孫、鈴木典子さんの解釈版となっております

 鈴木さんの意向を踏まえて頂いた原稿をそのまま掲載しております。ご了承くださいませ。 

 

池道之助の旅日記紹介 第4回

 

二十五日茂木浦出発。長崎着

茂木から長崎へは一里半の距離。朝はゆっくりして髪を結い風呂に入り五つころ(午前8時頃)ここを出立。九つ時(昼12時)に長崎着。

宿は糀屋町(こうじやまち)西川易次郎

この西川宿は易次郎の先代の主助の代より土佐国の御用達を仰せつかり、主助はそのお役目をよく勤めていたのであるがこの年の春、何者かの仕業で町内を往来していた夜四つころ(9時頃)に帰宅の途中町内で切り殺されたのである。実に合点の行かぬことであると人々が噂をする。なぜなら普段は正直者である故にこの御用をいただいたのであるから、人に切り殺されるような恨みを持たれる人物ではない。土佐藩の一行は非常に残念で涙いたした。

この頃、いろいろな物騒な話が飛び交っていた。

諸国から様々な修行のため人々が入り込み土佐からも二十人あまりの人がこの地に留学して、英学、医学や様々な塾で学びそれらの人を皆、西川主助が世話していたのである。各々の宿の世話、日用の世話までしておったが金銭トラブルでもあったのではないかとのことである。その頃、土佐からの書生の中に医師と御足軽の両人が出かけていたのでこの人達ではないかとの噂が流れたのであるが、確かなことはわからないので此処にその噂を記しておく。(犯人がわからないままであるゆえ)

それからは御用達を止められておったが再び、七月二十七日をもってせがれ易次郎へ以前の通り御用達を仰せつかったのである。一同有り難きことであると悦んだ。

二十六日後藤様の一行長崎につく。御宿は櫻馬場三浦藤蔵方である。

二十七日 天気 宿の留守番

二十八日 中濱氏同道にて五つ時(朝8時)出立。

古川町姫路屋久右衛門かたへ行きその後オランダレーマンの宅に行き二階に上がり酒など馳走になる。色々鉄砲見物をする四十五十あまりの筒の売買をすると聞く。その座敷のよいこと実に美を尽くせり。出島というこの所でめがねを買い向かいの尾浦を眺めるとイギリス・オランダ色々の家並みが見え、実に異国同様の様子である。湊には唐人、イギリス、アメリカ、オランダ舟二十隻あまり停泊見事である。

その帰り道、又二階に上がるとフランス製の売り物があり実に美しい。その後宿へ帰り休息する。そこにも数々の来客があり話しをする。

七月二十九日 天気

髪を結い読書する。中濱氏は数人の者と尾浦へ行く。私は留守番。

後藤様、中濱、田井、松井、かれこれ四、五人連れで行く。色々御見物の後日暮に帰る。この夜私は加治屋町大根屋の庄衛へ行き、うでぬき一枚新しいものを買って帰る。

三十日 天気 五つ半(朝9時)中濱と一緒に櫻馬場三浦藤蔵方の後藤様の宿へ行き金子(きんす)を持ち帰り中濱に渡す。九つころ(昼の0時)から後藤様、中濱、由比、松井の四人でレーマンへ筒見物に行く。七つ(午前4時)頃から雨降り出す。今夜は土佐商会総出。私一人が留守番。読書をする。

八月朔日(8月1日)雨大降り四つころ(午後2時)より雨上がり日和になる。田村屋庄衛より奥濱の反物、羽織、袴など三品受け取り金四両渡す。

中濱君 早朝出て八つに帰る。

 

長崎到着の翌日より一行は公務に着手して買い付けのための見学や交渉に動きが活発です。長崎とは違い、ゆったりとした地方に住む者たちにとっては目を見張るようなことばかりで落ち着いてはいられなかったのでしょう。辻斬りや大事、物騒なことが起こり始めます。

文明開化当時の長崎でのようすが道之助日記をたどってゆくとよくわかります。

 

次回をお楽しみに。

 

→池道之助の旅日記紹介5へ続く

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