河田小龍

どう影響を与えたか

万次郎の取り調べを担当した。万次郎から英語や海外の情勢や思想、技術などの話を聞く。万次郎から聞いた内容をまとめた『漂巽紀略』を執筆。

人物紹介

画像:河田小龍生誕地 墨雲洞跡文政7年(1824年)に高知城下・浦戸片町に生まれる。幼い頃から絵が上手だった小龍は、13歳の頃に南宋画の画家である島本蘭渓に弟子入り。壬生秦渓の号をもらう。 翌年には岡本寧甫に入門。儒学などを学んだ。父親の上司であり岡本寧甫とも交友があった吉田東洋は小龍に目をかけていました。 23歳の時に東洋の提案を受け、京都・大阪に遊学。京都で南画、大阪で書を学んだ。京都では狩野派・狩野永岳に弟子入り。 嘉永5年(1852年)、東洋によりにジョン万次郎の取り調べを行うように命じられる。その際に万次郎から英語やアメリカの事情など多くの知識を得る。 このとき万次郎から聞き取った内容をまとめたものが『漂巽紀略』。また、万次郎から聞いたアメリカ事情など交えて日本のとるべき道などについて語り合ったりもした。 晩年は主に画家として活動。明治31年(1898年)に死去。

坂本龍馬

どう影響を与えたか

土佐藩の絵師・河田小龍から伝え聞いた万次郎のアメリカでの体験などはその後の龍馬の思想・行動に大きく影響を与えました。

人物紹介

画像:坂本龍馬像天保6年(1835年)11月15日、現:高知市上町に生まれました。
12歳の時、楠山庄助塾で学ぶもすぐに退塾。14歳の時に、剣術の小栗流、日根野道場に入門。 嘉永6年(1853年)、剣術修行のため江戸へ。北辰一刀流千葉定吉(千葉周作の弟)に入門。
安政元年(1854年)に土佐へと帰郷。その際、絵師の河田小龍から西洋など異国事情を学ぶ。龍馬は河田小龍を通して、万次郎の異国での体験などを伝え聞いたのです。
剣術修行を終えた龍馬は帰国。文久元年(1861年)8月、武市瑞山が土佐勤王党を結成。その翌月、龍馬も加盟。
文久2年(1862年)に沢村惣之丞とともに脱藩。各地を転々とし、千葉道場に身を寄せる。その後勝海舟との出会い、勝海舟の私塾に入門。
慶応元年(1865年)には薩長同盟に向けて奔走。同年には長崎で亀山社中(のちの海援隊)を組織する。
翌年の慶応2年(1866年)、薩長同盟が成立。慶応3年には後藤象二郎とともに船中八策を策定。大政奉還の成立に尽力しました。
同年12月に近江屋にて、中岡慎太郎といたところを何者かに襲われ没す。その日は龍馬の誕生日でもありました。

岩崎弥太郎

どう影響を与えたか

万次郎の講義を受けていました。万次郎から英語などの様々な知識を学ぶ。三菱財閥の創業者。

人物紹介

画像:岩崎弥太郎像天保5年(1835年)に土佐国・井口村(現:高知県安芸市)に生まれる。頭脳明敏で幼い頃からその才を発揮した。
万次郎から語学、経済学、社会学といったものを学びました。
頭脳明敏で12歳で儒者・小牧米山に弟子入り、14・5歳になると詩才を発揮するようになったと言われています。
21歳の時、江戸へ遊学。安積艮斎の門人となる。帰国後、土佐藩の執政・吉田東洋を知り後藤象二郎と親交を持つようになる。
慶応元年(1865年)に「亀山社中」を設立、運営を龍馬たちに任せる。慶応3年(1867年)4月に龍馬が脱藩罪を許されたため、「亀山社中」は土佐藩が引き継ぐ。「亀山社中」は龍馬を隊長とした「海援隊」となり、その会計を弥太郎が担当していました。
明治3年(1870年)10月より九十九商会の指揮者となり海運業に従事。同商会は明治6年(1873年)に三菱商会と改名、岩崎弥太郎運営の個人企業となりました。この時に土佐藩主・山内家の「三つ葉柏」と岩崎家の「三階菱」をあわせた、三菱のマークがつくられました。明治18年(1885年)に50歳で没す。

勝海舟

どう影響を与えたか

日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団としてジョン万次郎が乗り込んだ咸臨丸の艦長だったのが、勝海舟でした。

人物紹介

画像:勝海舟銅像文政6年(1823年)~明治32年(1899年)。幕末から明治にかけて活躍して政治家。
剣術を島田虎之助より、蘭学を永井青崖から学ぶ。その後知遇を得た蘭学者・佐久間象山の薦めもあった西洋兵学も修め、私塾を開くこととなる。
万延元年(1860年)には、日米修好通商条約の批准書交換のため幕府が派遣した海外使節団として、咸臨丸に乗船。この時同船していた万次郎から英語やアメリカの知識などを学ぶ。その後、軍艦奉行に就任などする。
明治元年(1868年)、西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城を実現させた。新政府でいくつかの役職を歴任。明治32年(1899年)、脳溢血により死去。

福沢諭吉

どう影響を与えたか

日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団として、ジョン万次郎と共に咸臨丸に乗る。
その際、アメリカで万次郎とともに『ウェブスター大辞書』を購入し、持ち帰りました。

人物紹介

天保5年(1835年)生まれ。思想家・教育者などの顔を持つ。慶応義塾の創設者。
19歳の時に長崎へ遊学し、蘭学を学ぶ。その後、蘭学者・緒方洪庵の適塾で学ぶ。安政5年(1858年)に江戸へ。そこで蘭学を教える。この時の蘭学塾が慶応義塾の基礎となった。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団のひとりとして咸臨丸に乗船。
そこで通訳として同行していたジョン万次郎と、アメリカで『ウェブスター大辞書』を購入し、日本に持ち帰る。
文久2年(1862年)にはヨーロッパ各地へと渡欧するなどもした。慶応4年(1868年)に蘭学塾を慶応義塾とし、その後教育活動に努めた。明治34年(1901年)に死去。

板垣退助

どう影響を与えたか

実際に万次郎と会った事があるという記述はありませんが、万次郎が土佐で伝えたアメリカのデモクラシー思想は、板垣退助の思想・行動に影響を与えたと思われます。

人物紹介

画像:板垣退助銅像天保8年(1837年)~大正8年(1919年)。幕末から明治にかけ、活躍した政治家。
後藤象二郎とは幼なじみ。藩の要職を歴任。戊辰戦争では、新政府軍の参謀として活躍した。 維新後も政府の要職に就任する。しかし明治6年(1873年)、西郷隆盛らと征韓論を唱え、慎重論に敗れて政府から退くことに。
明治7年(1874年)後藤象二郎らと民選議員設立建白書を政府に提出するが、却下された。また愛国公党を結成、高知には立志社を設立。
その後自由民権運動を推進していく。明治14年(1881年)にはついに自由党が結成され、総理となる。
明治15年(1882年)の岐阜での遊説の際に、襲われ負傷する。その時叫ばれたのが「板垣死すとも自由は死せず」という言葉です。
明治17年(1884年)に自由党を一旦解散、帝国議会開設後の明治23年(1890年)に旧自由党を立憲自由党として再興させた。 その後、明治29年(1896年)に第2次伊藤内閣の内務大臣、明治31年(1898年)には大隈重信と憲政党を結成し、大隈内閣の内務大臣を務めた。
明治33年(1900年)に政界を引退。大正8年(1919年)に死去。